和上はこれを否定して云われた。
「それは悪い、お止めなさる方がよろしい。成程難しい商売をやめ、地方に帰って百姓となれば、最初は思うようにお寺参りも出来るけれども、しばらくすれば元の木阿彌。鋤鍬をとる農業の一々が煩悩を起す助縁(きっかけ)となり、御法義相続(お聴聞し続ける)の出来ぬ点はいずれか解からぬこととなる。のみならず商売すれば、多く気をつかい、はげしく煩悩を起す故、御法義相続の妨害になるには違いはないけれども、それが刺激となり、却って御相続の出来易いものである。
山奥より材木を流すに、谷川の曲がった狭い流れを落すときは、成程石や岩に当たって、曲がり角にぶち当たって中々流れにくい。けれども、その岩や石にあたる度にそれが刺激となり、突き当たりてはその反動力で流れ、流れては突き当り、割合早く流れる。それを広い平面の障りのない川に流すときは、何等の障害もないかわりに、一向らちがあかぬ。穏やかな川よりも、石や岩の多い谷川の方が、材木が早く流れると同じく、難しい人を相手に商売する間は刺激が多いから、一事一物ことごとく助縁となりて、御相続がしやすい、それを田舎に帰って百姓となれば、激しく心も使わず、安楽に暮せるから、刺激が少くなると同時に御喜びも起りにくい。」と諭され、一層、聴聞に商売に精を出されたとのことです。
とあります。
お念仏の教えに生きた忠兵衛氏の問いに、山より材木を流す喩えを用い、商売で難しい人を相手にして、困難にぶつかることもあるが、それが助縁ともなり、仏法をお聴かせいただくご縁につながるというのです。
私自身も、時間に追われる苦や、色んな不安を抱えています。
しかし、何の苦労もなく心配もなければ、幸せに過ごせるかといえば、そうでもないのではないでしょうか。辛いことがあって喜びも増し、悩みがあって力となり、不安があるから頑張れることもあるのではないかと、受け止めるようにしています。
そして、忠兵衛氏は、店にお仏壇を安置し、店員さんには、お念珠と正信偈(しょうしんげ)の本を与え、朝晩のお参りを欠かさず勤め、時には名僧の方々を招き、店員さんやお得意さん、知人が集まる法話会を開いていたそうです。そんな忠兵衛氏の経営理念の中心に、仏教精神を垣間見ることができます。
そのようなことを春季永代経法要の時に話をさせてもらい、先々代、恒之住職が萬行寺から持ってきた『七里和上遺弟寄書』を見てもらいました。その話を聞いた総代さんが、現役時代、伊藤忠商事の本社に出入りしていた時、会社にお仏壇が置いてあるのを不思議に思っていたそうで、なるほど、そういうことだったのかと仰っていました。