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善立寺の歴史

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開基年歴は不詳であるが、当寺はもと真言宗の寺院であったと伝えられている。その後、本願寺第8代蓮如上人の頃、念仏の教えに深く帰依し、石山合戦(1570年)の頃には既に本願寺へ属している。

その後、江戸時代後期におこった大石村の大火により、当寺をさかのぼる重要書類の多くを焼失しているが、元和(げんな)4年(1618年)、当寺の住職、釋祐善(しゃくゆうぜん)が本堂を再建したという記録が残っていることから、祐善を中興開基(ちゅうこうかいき)としている。

それから130年後、延享4年~宝暦6年にかけて、庄屋松屋の莫大な資金により、10年の歳月をかけて、再建された伽藍(本堂、山門、鐘楼堂、客殿、庫裏)は、第二次世界大戦の爆撃を受けて焼失する。その後、都市計画により境内地を縮小し、地方まれにみる荘厳なる伽藍と言われた当時の面影を見ることはできないが、御本尊である阿弥陀如来像は、古くからあるものが今も御内陣にご安置されている。

現在の本堂は昭和48年に再建され、平成24年の親鸞聖人750回大遠忌法要にあわせて記念事業が行われ、門信徒皆様のお力添えを頂き、本堂内部の施設が立派に修復されました。また、平成30年末には、新たに鉄筋コンクリート造のモダンな納骨堂が境内に完成いたしました。

善立寺の宝物

親鸞聖人

安政4年 本願寺廣如上人より授与
本願寺 親鸞聖人真向きの御真影

蓮如上人

嘉永元年 本願寺廣如上人より授与
本願寺 蓮如畫像

住職紹介

住職紹介

ご挨拶

第十四代住職 松岡 文昭

第十四代住職 釋文昭

嬉しいとき、悲しいとき、楽しいとき、辛いとき、いつでもどこでもあなたを包んでくださっている仏さまがいます。その仏さまこそ浄土真宗の御本尊である阿弥陀如来さまです。阿弥陀如来さまの本願は、念仏ひとつで無条件にすべての人をお救いくださる仏さまです。

核家族化が進んでいる現代、特に都市部ではお仏壇を迎えるのは、大切な人を失った時なのかもしれません。そこからお仏壇のある生活がスタートすることが多いようです。大切な人を失った時、私達は手を合わさずにはおれないのです。それはとても大切な事です。なぜならば亡き方の面影や言葉、ぬくもりや優しさが私達にはたらいてくださっているからです。

人それぞれにさまざまな仏縁がありますが、阿弥陀如来さまのお心、お念仏の教えに出あえた時、悲しみの中にも仏さまのお慈悲を感じていただくことができます。

また仏教とは、すべての人が仏となる教え。互いに敬い助けあい、阿弥陀如来の智慧と慈悲に照らされて心豊かに人生を歩んでいくことのできる教えであります。共々に手が合わさる人生を歩ませていただきましょう。

善立寺は神戸市灘区のこの地で500年以上の伝統を受け継ぐお寺でありますが、時代に即した取り組みを常に考えながら護持発展してきました。

先代住職は神戸ではいち早く堂内に納骨堂を設置しました。そして、隣接地には墓所もありたくさんの方がお参りに来られるお寺です。

また、昭和45年には境内地に社会福祉法人  大石保育園を開園しております。以来、多くの子ども達がこの地で仏さまのご縁に出遇い、今では親子二代さらに三代へとつながっています。

これからも皆様にとって必要とされる寺であり続けたいと思います。どうぞ、お気軽にお参りください。

略歴

  • 1974年

    福岡県、真宗大谷派の寺で生まれる

  • 1997年

    京都、大谷大学真宗学科卒業

  • 真宗大谷派佐世保別院に勤務

  • 2004年

    善立寺後継住職として入寺

  • 2012年

    親鸞聖人七五〇回大遠忌法要

  • 善立寺第十四代住職に就任

  • 大石保育園、事務長に就任

  • 2017年

    社会福祉主事認定資格を取得

  • おおいしこども園、副園長に就任

  • 2020年

    おおいしこども園、園長に就任

第十四代住職 松岡 文昭の画像

松岡 文昭

住職の法話

住職の法話

過去の法話

※スクロールで過去の法話が全て表示されます。

第十四代住職 松岡 文昭の法話風景画像

アタッチメント(愛着)

 こども園で仕事をしていますと、保育に関する学びも多くあります。浄土真宗の僧侶である私は、何事も仏法に問い、照らし合わせてみる癖がついています。

 乳幼児期の発達には、愛着を意味するアタッチメントが心の発達への影響、さらには将来の幸福度にもつながっていると言われています。
今回は、東京大学大学院教育学研究科、遠藤利彦教授の話から、間接引用をして考えてみます。

「アタッチメントとは、子どもが怖くて不安なとき、あるいは感情が崩れたときに、特定の大人にくっついて、もう大丈夫だという安心感に浸ることです。これは、皮膚と皮膚がぴったりとくっついているという経験が重要であるという考え方ではなく、子どもが不安なとき、感情が崩れたときに、大人がそれを共感的に受け止めて、その崩れた感情を元どおりに立て直してあげること、安心感を与えてあげることが大切だ。」ということなのだそうです。

 さらに、大人の手のひらを子どもの避難所に喩え「手のひらの避難所に、子どもが泣きながら駆け込んで、慰められて、安心感に浸る。もう大丈夫という気持ちになる。そうすると、今度は同じ手のひらを基地、拠点にして、元気よくそこから飛び出していく。この輪っかが少しずつ大きくなっていくことを成長・発達と捉える。何かあったときには絶対戻れるところがある。守ってくれる人がいる。応援してもらえるところ、励ましてもらえるところがある。これが子どもの避難所、基地ということだ。」と言われています。

 さて、この内容が浄土真宗の教えと、どのようにリンクするのかというと、阿弥陀(あみだ)さまの右手は招喚(しようかん)の印(いん)「真実の世界に帰っておいで」というお心、左手は摂取(せつしゆ)の印「どんなことがあっても必ず救いとる」というお心を表しているからです。

 阿弥陀さまとは、親心の仏さまです。幼子の父や母のように、私たちを無条件に受け止めてくれます。失敗をすれば慰め、もう大丈夫だよ、また頑張ってみてごらんと、いつも私のことを心配して見守り、励ましてくださる親心の仏さまです。

 阿弥陀さまの手のひらは、まさに安心の避難所で、基地であったといただくことができます。これは、子どもに限らず大人にも必要です。
そのお心に出遇う時、そこからの歩みがあります。阿弥陀さまの愛着は、私にとってのよりどころです。

(住職 松岡文昭)