先日、朝早くこども園に行くと、玄関先から園内の廊下の先まで大量の蟻が長蛇の列を作り、うごめいているのを発見しました。
幸い園児はまだ一人しか登園しておらず、職員も早番の一人しかいません。
初めての状況に慌てて殺虫剤を掛けてまわっていましたら、次の職員が出勤してきたので、一緒に死骸を拭き取り事なきを得ましたが、次々と動かなくなる蟻を見て、致し方ないと思いつつ、以前読んだ本願寺派の保育雑誌の話が蘇(よみがえ)ってきました。
それは、芥川龍之介の小説、「蜘蛛の糸」を短くまとめたものでした。
『死んで地獄に落ちた大泥棒カンダタ。極楽から見ていたお釈迦様は、かつてのクモの命を助けた彼の善行を思い出し、地獄から救い出してやろうと、クモの糸を垂らしました。糸にすがって登るカンダタ。ふと下を見ると、次々に登ってくる人々が。糸の切れることを恐れたカンダタは彼らに向かって、「糸は自分だけのものだから下りろ」と叫んだ。途端に糸は切れ、彼は再び地獄へ落ちてしまった。』という内容です。
児童文学作品ですが、大人になって読むと、カンダタとは自分ではないかと考えさせられます。一匹の蟻も助けることのできない私は、蟻地獄へと引き込まれていくかもしれません。
しかし考えてみれば、お釈迦様は本当にカンダタを見捨てたのだろうか。
お釈迦様の教えとは、地獄にしか行きようのない私を目覚めさせ、浄土を願う人となる教えではなかったのか。
さらには、お釈迦様がお説きになられた阿弥陀さまは、誰一人として見捨てることのない、摂取不捨(せっしゆふしや)の仏さまであると聞かせていただいているが、カンダタも極楽へと生まれていくという、蜘蛛の糸の話には続きがあるのではないかと思えるのです。
歎異抄(たんにしよう)の第二条に、親鸞におきては、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とあります。
「親鸞においては、地獄は一定の住家」だと言われました。
しかし、阿弥陀如来のお心に出遇われた親鸞さまは、地獄にしか行きようのない私でありながら、すでに阿弥陀さまとご一緒であったと喜ばれていたのではないかと思います。
そうしますと、蜘蛛の糸には、カンダタが極楽に生まれていくという続きがあるように思えるのです。機会がありましたら、蜘蛛の糸を読み直してみるのも面白いかと思います。